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愛真高校の「ことば」

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愛真高校の教育を形作っている「ことば」を紹介します。 (生徒の感話、創立者のことば)
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記事一覧

作業のことば 収穫感謝礼拝メッセージ(2023年度)実感・変化・なんか良い

5涙と共に種を蒔く人は   喜びの歌と共に刈り入れる。 6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は   束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる。                 (詩編126篇5~6節)  おはようございます。米を育てるにあたっての表現は、2年前水田山林班の生徒がこの場所で言っていたことがずっと頭に残っています。「滴り落ちる汗や流れ出る血を田に染み込ませる」、がーんという衝撃を受けました。それは比喩じゃなかったから。それが比喩じゃないという実感がた

作業のことば 声を聴く 製パン班(2023年度)

 製パン班の作業は、パンとの対話によって成り立っています。パンの状態は、気温、湿度などによってさまざま。だから僕らは、パンがなるべく快適な状態で過ごせるように、パンの声を聴いてあげなければならないのです。  昼休みを使って、僕らはパンをこねます。パンをこねる上で一番大切なことは、愛を込めてこねるということです。愛を込めてこねたら、パンはおいしくなります。手の熱をパンに伝えるようにこねるのです。パンを発酵させてくれる酵母菌が快適だと感じる温度は、だいたい人の体温くらいです。人の

作業のことば 園芸班 (2023年度) 

 地面に落としたら、見失ってしまいそうな程に小さな種。その種から芽が出てカラフルな花に変わる。小さく優しく確かにそこで咲き続け、しおれ、また種を作る。その小さな奇跡のループに、私はただただ心洗われるばかりです。  私が園芸班に入り、もうすぐでちょうど1年半です。1年半の間、花と関わり、たくさんの自然の力と直接触れ合ってきました。昨年の秋、私は種を蒔き、自分の部屋で苗を育てていました。そして、自分の知らないうちに出た、小さなたくさんの芽に僕は感動しました。その小さな芽はいつの

作業のことば 米とわたわっしょい 水田山林班(2023年度)  

 わっしょいわっしょい米とわたわっしょい!万歳万歳、米だ、ばんざーい! 例年同様、土地を学校に貸してくださったフジイ拓次郎さん曰く、今シーズン最初の秋晴れとなった9月7日、愛真生と職員のみんなは稲刈りをしました。生乾きの土の上をズンズン歩き、元気に立った穂をザクッザクッと刈っていく。昨年の稲刈りがイノシシ台風どろんこ田んぼだっただけに、皆も嬉しそうに稲を刈り、紐で束ねていく。収量は玄米で360㎏、約1か月分のお米です。  水田山林班の今年度の作業内容も、思い返せば非常に多様

作業のことば 菜園班(2023年度)  

 菜園班に入って得られたものは多く、どれも大切だ。菜園班に入って最初の頃は抵抗のあった虫にも慣れ、雑草取りの手際もよくなり、収穫の喜びはどんどん大きくなっていった。土を耕す度、植える度、水をやる度、収穫をする度に季節を感じる。この愛真の小さな農場で感謝と喜びを共にしながら、今日も野菜と共に成長していく。すくすく成長していく野菜を見いると心温まる。その時間はとて心地よい。  ふと、枯れてしまったり折れてしまった野菜のことが心に浮かぶ。100%全部が元気に成長して、収穫できる訳

広島平和学習感想文(2023年度) 広島から帰って来て~大東亜共栄圏と日本の平和 

 今回広島に行って、自分自身について気づいたことがある。それは、自分は太平洋戦争について、日本の加害の歴史にとても興味があるということ。私は日本人ではあるけれども、韓国人被爆者を慰霊する碑は、特に自分の心に残る。  それには、自分が東アジア圏に住んでいたこととBTSのファンであることが関係している。香港という国は、大英帝国植民地時代に日本にも占領されていたことがあり、現在ある中心部の大通りには、日本の元号の名前がつけられていたという。またBTSは今までに何度か反日的な言動で

自己教育としての教育 

 今まで語って来たキリストの福音が、本物であるかどうか、体当たりで探究して下さい。そして、これから始まる社会生活こそは、人生の最上の学校であります。皆さんの教育は、まさにこれから始まる。それは「自己教育」という形で始まるのです。今までの学校生活は、いわばこの自己教育のための、準備期間でありました。どうかこの喜び溢れる卒業礼拝が、文字通り、名実ともにコメンスメント(新しい出発)であるようにと、心から願いつつ、このお話を終わります。 (一九七〇年、恵泉女学園短期大学卒業礼拝講話

「真の主体性」創立責任者のことば

 主体性確立への道は、自分の魂のふるさとはどこにあるのか、本当の自己とは何か、という問いにまでさかのぼって、歩み直さねばならないことになる。そして、人間の一生とは、まず自分の家庭から始まって、一歩一歩自分のアイデンティティを探究しつつ進んで行く「自己探究の歩み」である、と言うこともできるであろう。(中略) そして実は、この自己同一性探究の終極に、イエス・キリストが立っておられるのである。このキリストの中に、真の自己を見出すとき、私のふるさとは天に在り、地においては旅人、やどれ

「ほんとうの自分」創立責任者のことば

 まことの神にめぐり会う時、そしてその神の愛の中に自分の魂が抱かれる時、人は初めてほんとうの自己を発見する。そのほんとうの自己とは、自分が愛されているということを発見することだ、ということです。しかもこの愛は、抽象的な口先だけのことではなくて、自分のすべて——身体も職業も家庭のことも、すべてを含んだ自分——を愛し、自分の全生活に対して責任を負い抜いて下さるということであり、そのような神様の御手に抱かれて生きている自分を知るとき、われわれの生活に喜びが溢れて来る。このような生き

「まことの愛」創立責任者のことば

 皆さんはこれを、余りにも突飛な答だと思いますか。それなら、神を発見するということの内容として、まことの愛を発見すること、というふうに言い換えてもよい。神は愛でありますから。 ——愛の対象を与えられ、愛に生きるということこそ、人間として生きることの最終的目標である。こう言えば、文学者などは賛成してくれるかも知れません。しかし実は、これではまだ、最終的解答にはなっていないのです。なぜなら、われわれは人を本当に愛することができませんから。  すると、神を発見し、愛に生きるとい

「人生の目的としての真理」創立責任者のことば

 最後にもう一度、今日のお話の冒頭に立ちかえり、私が大切だと考えている一つの結論を、申し上げたいと思います。人生には意味と目標がなければならない。私のお話は、青年期を可能性に満ちた時期としてとらえ、その未来の可能性をいかにして現実化するかという視点から、語り始めたのでしたが、一歩退いて考えてみると、そもそも生きるということ自体に意味があるのかということを、もう一度根源的に問い直してみる必要があります。われわれの人生、つまり生きているということ自体に意味があるとすれば、それは何

「教育の課題としての真理」創立責任者のことば

 青年期の課題を考えるに当って、最初に取り上げなければならないのは、この「偽り」の問題でありましょう。そしてこれは、もちろん青年だけの問題ではない、あらゆる人間にとっての、どうしても回避できぬ問題であります。そしてまた、その答えも原理的にはきわめてはっきりしている。人は正直でなければならない。けれども、一体誰が本当にこれを実行するのか。これが問題であります。 (一九七九年、小倉での講演「青年期の課題」より) 高橋三郎著作集第九巻p.9 #キリスト教愛真高等学校 #愛真高校

「真理は受け容れ難い」創立責任者のことば

 そこで、これについてなされたルターの発言を、次に考察することにしよう。「神の御心は人間にとって厳しく、気に入らず、まったく絶望的であるように見える」。なぜならわれわれが嘘つきであり、真理に心を寄せているかのように思い上がっており、自分の考えに同意し賛成する真理だけに耳を傾けるので、真理は反対の姿をとって、われわれの許に来ることしかできないからである。しかし人間が謙遜に自己を開け渡し、信仰によって忍ぶならば、そのとき初めて、神の御旨がいかに善であるかを理解するのである。 高

「名前の力」創立責任者のことば

 超越的な愛、またこれに触発されて人間の中に生み出される愛、具体的にはたとえば親が子供に対して抱く愛などは、われわれが犬の首に鎖をつけ、あるいは小鳥を鳥籠の中にとじこめ、餌をやって可愛がるような愛であってはならない。これは自明のことでありまして、真の人格的な愛は、その対象を独立した個として尊重するものでなければなりません。ところで先ほど申したように、人間は自分自身になるため、真の自己を探究しながら、どこへ向かえばよいのか分からなくて、さすらっている放浪者なのですから、そういう