収穫感謝礼拝の「ことば」 労働は「神の指」(2022年度)
労働は「神の指」
正田 満
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。(創世記一章26~31節)
1 はじめに
今年も秋の美しい季節がやってきました。朝、学校までの道に降り積もった色とりどりの落ち葉をザクザクと踏みつける音が耳に心地よく響きます。愛真の敷地内でも、あけびや、柿、栗といった山の恵みを沢山見かけました。
そんな、収穫の季節である秋は、愛真の各作業でも自然の恵みを受け取る季節でもあります。同時に、収穫という行為を通して、これまでやってきた労働について振り返り、自然、仲間、そして神に思いを馳せる季節でもあります。各作業の代表が話してくれた通り、一人ひとりが収穫や、それまでの日々の中で、学んだことや、感じたことがあったと思います。
菜園班、養鶏班、園芸班、水田山林班は実際の収穫を体験して自然や動物たちからの恵みを受けました。製パン班、保存食品班、リサイクル班は、その収穫したものを実際に加工するということで収穫の恵みを感じたと思います。
つい先日までは、校舎の前に「はざかけ」の風景が広がっていました。水田山林班が、はしごや竹を工夫して使い、刈り取った稲を天日干してくれたからです。春に全校で田植えをし、十月末には全校で実施した手刈りによる稲刈りは、ここにいるほとんどの生徒が共有した労働であり、収穫と恵みの体験でした。
余談ですが、私自身も愛真高校在学中は三年間水田山林班に所属していたので、今回の稲刈りも張り切ってやらせていただきました。稲刈りをしながら、ふと思い出したことがあります。私が高校三年生の最後の田植えの時に、苗を植えながら校内にも田んぼがあったらいいのにと考えました。さっそく次のフリーモーニングに学校の敷地内で良い場所はないかと歩き回り、丸一日を使い、山水が溜まっていた場所を開墾し、田植えで余った苗を貰い受け植え付け、ミニ田んぼを作って秋の季節に収穫しました。周りは正田という名前にちなみ、正田(しょうでん)と呼んでくれていました。何年かは引き継いでくれてたみたいですが…今はないですね。
さて、私がこの三年間属する修繕班では、実際に何かを育てたり、収穫したり、食品加工することはありません。今年は例外的に夏野菜を隙間時間に育てることをしましたが、修繕班担当の私が収穫感謝礼拝で何を話したらよいか、最初は分かりませんでした。しかし、改めて考えると日々の私たちの作業を通して、労働を通して、自分自身、そして他者から何かを得、学び、気づき、成長することが、この半年、一年半、二年半の月日の中に必ずありました。目に見える収穫だけでなく、精神的な収穫が確かに、みなさん一人ひとりにあったのではないでしょうか。
今回の機会に、そもそもなぜ今日のこの時間に、収穫感謝礼拝を行うのか。そして、なぜ私たちはこの愛真で労働をするのか。これらの問いについて、聖書から、そして愛真での日々の労働からヒントをもらったことをみなさんと分かち合いたいと思います。
2 収穫感謝礼拝の意味
収穫感謝礼拝の由来を調べるとこのような説明がされています。一六二〇年九月、メイフラワー号に乗ってヨーロッパから信仰の自由を求めてアメリカ大陸に渡ってきた清教徒と呼ばれるクリスチャンたちは、到着した土地での新しい生活を始めました。しかし、すぐにやってきた冬は非常に厳しく、到着した人々の半数が、餓えや寒さで亡くなってしまったそうです。しかし、人々はそこにもともと住んでいたネイティブアメリカンの人々に助けられ、土地を耕し、作物を育て、秋になって最初の収穫を得ることができました。そのことに感謝してお世話になったネイティブアメリカンの人たちを招いてお祝いをしたことが最初の収穫感謝祭の始まりとされています。しかし、考えてみるとキリスト教に限らず古来から収穫を祝う祭りが行われています。日本史の教科書にも新嘗祭(にいなめさい)という五穀豊穣に感謝する収穫祭が記されており、神社では毎年11月23日(水・祝)にこの祭りが行われています。例にもれずキリスト教における収穫を祝う祭の歴史も古く、旧約聖書には、すでに収穫祭のことが記されています。出エジプト記二十三章16節では神がモーセにこのように語ったとあります。「また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。」
神は言います。「収穫祭を行わなければならない。」収穫祭を行う。それはなぜか。収穫というのは、「いのち」そのものを表します。土を耕し、種を蒔き、育て、そして収穫の時を待ちます。言い換えると植物であれ動物であれ、私たちはいのちを収穫するのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ三章6節)私たちはその収穫のために日々世話して労力と時間を費やします。そして、なんだか、私たちがその植物を成長させた気になることがあります。実際にそのような部分は確かにあります。しかし、実際にいのちを与え、成長させたのは神なのです。人がいくら努力しても、決していのちを無から造り出すことはできません。そこで、神からのいのちを受けた収穫を祭るのです。よって収穫祭をおこなうのです。
3 労働の意味①~聖書から~
それでは、私たちはなぜ収穫のために労働をするのでしょうか。ここから労働を3つの視点から考えたいと思います。
まずは聖書から、労働の意味を大きな視点、抽象的な視点を見てみたいと思います。
そのヒントは聖書の創世記一章と二章に記されています。創世記一章と二章で神は「光あれ」という有名な言葉から始まり、天地を創造されるという仕事・労働をされました。そして、お造りになったすべてのものを御覧になり、「極めて良かった。」と言われます。そして最終的に、神は自分が働くだけでなく、自分の仕事を引き継ぐようにと、人間に命じられました。創世記一章28節で神は人間に「地を満たせ。地を従えよ」と伝えました。
ある信仰書では「地を従えよ」という言葉は、神が創造されたものはすべてよかったものの、そこにはまだまだ 発展の余地があったということを示している。人間が仕事を通し、その未開の可能性を切り拓くために、神はそのような余地を残されたのだ。と書かれていました。創世記二章5節で神は人間を園に置き、「そこを耕させ、またそこを守らせた」とあります。この言葉が意味するのは、神は人間に必要なものを与えようとして働かれる一方、人間も神のために働くということと捉えることができます。
現在の地球温暖化をはじめ、多くの環境問題、それらを原因としている人間の争いは、神のこの「地を従えよ」という言葉を正しく理解せず、行動してしまった結果のようにも思えます。本来神は人間に必要なものを与えるために仕事をされ、人間も神のために正しく管理して行くことが必要とされているのです。
さきほど説明した通り、人がいくら努力しても無から「いのち」を造り出すことはできません。しかし、私たちは土を耕し、その「いのち」の種を蒔き、適度に管理し、育てるという大切な役割が神から仕事、労働として引き継がれ、天地創造の仕事の延長として与えられているのです。そう考えると、なんだかスケールの大きな話です。だから私たちはその大切な役目を任せられ、収穫のために汗を流し、労働するのだと考えることができます。
4 労働の意味②~愛真の生活から~
それでは、次に労働の意味を日々の愛真生活という視点、具体的な視点から見てみたいと思います。
今年度は広報のお仕事で外にでて行ったり校内で何度か学校説明を行う機会がありました。説明をしながら改めて感じたことは、「労働」は愛真教育の中で、特に大切な位置付けにあるということです。愛真での労働は、実際に手と足を動かし仲間のために間接的、直接的に仕事をします。具体的には「自分たちの生活は、自分たちの手で整える」ということをスローガンに週に2回の作業と朝・昼・晩の調理をします。もちろん、作業や調理だけでなく、各クラス、授業、寮生活での当番や役割である仕事、労働もあります。もちろん、当番や役割でなくても自発的なボランティアでやってくれている仕事、労働も沢山あります。そんな、小さい、大きい、目立つ、目立たないに捉われない、一人ひとりの仕事、労働によって、この愛真という小さな共同生活が成り立っています。その中では日常的に、仲間が自分たちのためにやってくれている仕事に「ありがとう」という言葉と感謝や信頼する気持ちが自然と湧いてきます。そして、反対に「ありがとう」という言葉や感謝を伝えてもらったときには、自分の仕事、労働に対して、誇らしさや喜びが溢れてくるのではないでしょうか。この意味するところ仕事、労働は神から引き継がれ、任せられたものであるとともに、私たち自身の感謝や喜び、信頼につながる「自分が自分らしくなれる」安心感を与えてくれるものだということです。
5 労働の意味③~ルター神学から~
そして、最後、3つ目の視点として、ルター神学による、労働は「他者への愛への実践である」という視点を紹介したいと思います。
さきほどの信仰書によると、十六世紀の宗教改革者、特にマルティン・ルターやジャン・カルヴァンは、すべての仕事は、修道士や司祭の仕事と同じように、神からの命を受けた仕事であると述べています。ルター神学の源流では、すべての仕事に尊厳があると強調しています。その神学によれば、人間の労働を通して、神は人類全体の生活を支えておられるということです。ルター神学が唱えるように、仕事をしているときの私たちは、他者への愛という神の意思を実践している「神の指」なのです。そう考えるとき、仕事は単に生計を立てるための手段ではなくなり、隣人を愛することが目的となります。私たちの労働は「神の指」であり、神の愛の実践である。そう考えるとすると、仕事、労働は神から任せられたものであるとともに、仲間を思いやり、大切にし、人と人をつなぐ役割を持っている。それらが私たちに恵みとして与えられているということに気付かされます。
6 おわりに
最後に収穫感謝祭にあたり、思い出す光景があります。私が勤めていた前任校では収穫感謝祭礼拝には実際に各生徒がミカンかリンゴを家から数個ずつ持参し、礼拝の途中で前方に用意された箱に捧げものとしてそれぞれ持っていくという時間がありました。高等部だけで六百人ほど在籍していたので、かなりの数になりました。その集まった捧げものを礼拝後に、数か所の養護老人ホームや介護施設、障がい者支援施設といった社会福祉施設に届けに行きました。ただ果物を届けるだけではなく、交流の時間を持ち、讃美歌を歌い、そのひと時をともに祝い、分かち合いました。
1620年、アメリカに渡った人々が冬を越し、収穫の恵みに感謝し、それを周りの人々と分かち合ったという原点に戻り、秋のこの収穫の恵みの時、収穫を神や自然に感謝するだけでなく、身の周りの人たちに、また世界で困難を覚えている人たちを覚え、分かち合うことを何らかのかたちで実践できるようになりたいものです。
7 お祈り
神様、今日も新しい朝を、新しいいのちを与えてくださり感謝します。そしてこの秋の収穫の季節を感謝いたします。今日はこの収穫が、神から命の恵みとして与えられていること。そして日々の仕事、労働は神から引き継がれ、任せられたものであり、私たち自身の感謝や喜び、信頼につながること、そして日々の労働は「神の指」であり、神の愛の実践であり、私たちを互いにつなげたり、大切にすることということを聖書から分かち合いました。私たちにもこの収穫の恵みを分かち合うことができる心をお与えください。
このお祈りをイエスキリストのみなによってお捧げします。アーメン
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