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愛真高校の「ことば」

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愛真高校の教育を形作っている「ことば」を紹介します。 (生徒の感話、創立者のことば)
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#髙橋三郎

自己教育としての教育 

 今まで語って来たキリストの福音が、本物であるかどうか、体当たりで探究して下さい。そして、これから始まる社会生活こそは、人生の最上の学校であります。皆さんの教育は、まさにこれから始まる。それは「自己教育」という形で始まるのです。今までの学校生活は、いわばこの自己教育のための、準備期間でありました。どうかこの喜び溢れる卒業礼拝が、文字通り、名実ともにコメンスメント(新しい出発)であるようにと、心から願いつつ、このお話を終わります。 (一九七〇年、恵泉女学園短期大学卒業礼拝講話

「真の主体性」創立責任者のことば

 主体性確立への道は、自分の魂のふるさとはどこにあるのか、本当の自己とは何か、という問いにまでさかのぼって、歩み直さねばならないことになる。そして、人間の一生とは、まず自分の家庭から始まって、一歩一歩自分のアイデンティティを探究しつつ進んで行く「自己探究の歩み」である、と言うこともできるであろう。(中略) そして実は、この自己同一性探究の終極に、イエス・キリストが立っておられるのである。このキリストの中に、真の自己を見出すとき、私のふるさとは天に在り、地においては旅人、やどれ

「ほんとうの自分」創立責任者のことば

 まことの神にめぐり会う時、そしてその神の愛の中に自分の魂が抱かれる時、人は初めてほんとうの自己を発見する。そのほんとうの自己とは、自分が愛されているということを発見することだ、ということです。しかもこの愛は、抽象的な口先だけのことではなくて、自分のすべて——身体も職業も家庭のことも、すべてを含んだ自分——を愛し、自分の全生活に対して責任を負い抜いて下さるということであり、そのような神様の御手に抱かれて生きている自分を知るとき、われわれの生活に喜びが溢れて来る。このような生き

「まことの愛」創立責任者のことば

 皆さんはこれを、余りにも突飛な答だと思いますか。それなら、神を発見するということの内容として、まことの愛を発見すること、というふうに言い換えてもよい。神は愛でありますから。 ——愛の対象を与えられ、愛に生きるということこそ、人間として生きることの最終的目標である。こう言えば、文学者などは賛成してくれるかも知れません。しかし実は、これではまだ、最終的解答にはなっていないのです。なぜなら、われわれは人を本当に愛することができませんから。  すると、神を発見し、愛に生きるとい

「人生の目的としての真理」創立責任者のことば

 最後にもう一度、今日のお話の冒頭に立ちかえり、私が大切だと考えている一つの結論を、申し上げたいと思います。人生には意味と目標がなければならない。私のお話は、青年期を可能性に満ちた時期としてとらえ、その未来の可能性をいかにして現実化するかという視点から、語り始めたのでしたが、一歩退いて考えてみると、そもそも生きるということ自体に意味があるのかということを、もう一度根源的に問い直してみる必要があります。われわれの人生、つまり生きているということ自体に意味があるとすれば、それは何

「教育の課題としての真理」創立責任者のことば

 青年期の課題を考えるに当って、最初に取り上げなければならないのは、この「偽り」の問題でありましょう。そしてこれは、もちろん青年だけの問題ではない、あらゆる人間にとっての、どうしても回避できぬ問題であります。そしてまた、その答えも原理的にはきわめてはっきりしている。人は正直でなければならない。けれども、一体誰が本当にこれを実行するのか。これが問題であります。 (一九七九年、小倉での講演「青年期の課題」より) 高橋三郎著作集第九巻p.9 #キリスト教愛真高等学校 #愛真高校

「真理は受け容れ難い」創立責任者のことば

 そこで、これについてなされたルターの発言を、次に考察することにしよう。「神の御心は人間にとって厳しく、気に入らず、まったく絶望的であるように見える」。なぜならわれわれが嘘つきであり、真理に心を寄せているかのように思い上がっており、自分の考えに同意し賛成する真理だけに耳を傾けるので、真理は反対の姿をとって、われわれの許に来ることしかできないからである。しかし人間が謙遜に自己を開け渡し、信仰によって忍ぶならば、そのとき初めて、神の御旨がいかに善であるかを理解するのである。 高

「名前の力」創立責任者のことば

 超越的な愛、またこれに触発されて人間の中に生み出される愛、具体的にはたとえば親が子供に対して抱く愛などは、われわれが犬の首に鎖をつけ、あるいは小鳥を鳥籠の中にとじこめ、餌をやって可愛がるような愛であってはならない。これは自明のことでありまして、真の人格的な愛は、その対象を独立した個として尊重するものでなければなりません。ところで先ほど申したように、人間は自分自身になるため、真の自己を探究しながら、どこへ向かえばよいのか分からなくて、さすらっている放浪者なのですから、そういう