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夕会ノートより(2010年度②)

ヨハネによる福音書には、20章11節から18節までの間に、「分からない」や「振り向く」という言葉が二回出てくる。なぜ、マリアはキリストに気づかなかったのか。いや、気づけなかったのか。それはきっと、悲しみが彼女の瞳を覆ってしまったから。マリアが探していたのは、キリストご自身ではなく遺体だった。だから彼女は近づくキリストが誰であるか分からなかったのだ。彼女はキリストの復活を信じることが
できなかった。しかし名前を呼ばれると、彼女は体ごと振り向いて、キリストの復活を目の当たりにしたのだ。
話は変わるが、十月三〇日に祖父が他界した。私が生まれた時、父方の祖父は亡くなっていたので、彼は私の唯一のおじいちゃんだった。去年の夏、祖父は危篤状態で、いつ亡くなってもおかしくなかった。私は実家に帰った。酸素マスクと人工肛門をつけた祖父は、私の知らない人のようだった。もう誕生日を迎えることはないと思っていたが、それから二度の誕生日を迎え、八九歳になった。一時、元気になったように見えた祖父は、時々いじわるなことを言って、いつものおじいちゃんに戻ったが、どこか会話が噛み合わなかった。休みの度、お見舞いに行った。姉や私をいとことよく間違えた。十月三一日、祖父が亡くなったと知らせを受けた。誰も死に際に会えなかったらしい。涙は出なかった。実感もない。ただ少しほっとした。祖父はクリスチャンだった。私は葬儀には出席しなかった。以前から家族とも相談して決めていたことだった。冷たい孫だと言う人もいるかも知れない。でも、私は肉体との別れを惜しみたくはない。肉体は器だから、そこに思い出や記憶が詰まっているわけではない。大切なのは霊だ、魂だ。それなら大丈夫。もう神さまがちゃんととらえていてくださるから。
人の死はいつ訪れるのだろう。心臓が止まった時?
脳死になった時?
肉体が腐敗した時?
いいや違う。人の本当の死は肉体の死ではなく存在の死だ。その人を知る人がこの世から一人もいなくなること。人は誰しも証を残したがる。自分の生きていた証拠を。自分がこの世に存在していたことを誰かに知っていて欲しいから。でも誰も私を知る人がいなくなったとしても、神さまはずっと覚えていてくださる。そう信じているから祖父との別れも悲しくはなかった。ちょっと寂しいだけ。だから祖父の死を知って、私よりも先生方の方が暗い顔をされるのは少し変だと思った。祖父は事故に遭ったのでも殺されたのでもな
い。悲惨な死ではなく、静かで穏やかな死だった。消えてなくなった訳ではない。ただ、私たちより先に手の届かない所へ行ってしまっただけ。それは決して遠い所ではないと思う。本当はみんなが思っているよりも、もっとずっと側にあるのだと思う。だから悲しくはない。
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