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収穫感謝礼拝 生徒感話(2010年度)人間として生きる糧を与えられて(水田山林班

稲を育てることは、そう簡単なことではなかった。田植えをした後、すぐに田の草取りは始まる。四つんばいになり、一本一本草を取っていく。一週間もすれば、また新しい草が生えてくる。今年は特にコナギという草が異常に多く生えた。
そのため、例年ならば田車を使って草取りをするのだが、今年はすべて手で取った。気が遠くなるような作業だった。米づくりというと、人間がすべてを支配しているように聞こえるが、実際に育ててみて分かったことは、人間は稲の生長の一部を助けているに過ぎないということだ。生長するのは稲自身であり、育てているのは太陽であり風であり雨である。カエルやクモやトカゲも害虫から稲を守っている。人間は一部を担っているに過ぎないのだ。しかし、その一部を怠れば稲は育たない。
自然は思い通りにはならない。どれだけ頑張り、思いを込めても、不作の時がある。今年がそうだった。高温障害のため、島根県の収穫量は平年に比べて七〇パーセントほどであり、品質も悪かった。農家の苦労が分かった思いがする。水田・山林班に入り、毎日食べる茶碗一杯のご飯に、どれだけの苦労が詰まっているか、どれだけ自然の恵みと神の恵みが詰まっているかを知った。それから、ご飯はよりおいしくなった。皆さん、ご飯の一粒一粒をどうか味わって食べてほしい。
水田・山林班は木も育てている。愛真の先輩たちが植林してくれた木が成長し、間伐する段階に来ている。間伐することにより、一本一本の木に太陽が十分当たるようにするのだ。二十年近く前、先輩たちがここに植えた木を間伐することは不思議な感じがする。先輩たちの労働に自分たちの働きがつながると思うと、何か歴史を感じると共に誇らしい気持ちになる。
人は何のために生きるのか。一年生の頃は、生きるとは何なのかが分からず悩むことが多かった。その時、ある先生が「まず働きなさい」と言われた。初めは理解できなかったが、田んぼの中で泥まみれになって、田の草を取り、藪の中で汗まみれで木を切ることで分かったことは、生きている実感だった。内村鑑三の「読むべきは聖書、学ぶべきは天然、為すべきは労働」の意味が、今分かった気がする。神様から与
えられた収穫は、単に米や食べ物だけではなく、人間として成長する生きる糧を与えられたことだ。自然に感謝、水田に感謝、山や森に感謝。そして全てを与えて下さった神に感謝である。
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