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収穫感謝 生徒の「ことば」  (2022年度) 水田山林班

 今年も無事、稲刈りは終わりました。今年の田んぼは水はけが悪く、とてもドロドロしていて大変でした。みなさんお疲れ様でした。また今年は水田山林班の負担が少しは減るように、アイガモを卵からかえしてみました。六つの卵から二羽産まれました。期待を込めて田んぼに放ったのですが、あんまり役には立たず、みんなの癒しとして終わってしまいました。収穫というのは水田山林班にとって大きな喜びと充実感のある年に一度の特別な出来事です。今年の稲刈りも例外ではありませんでした。いつもは水田山林班八人で向かう道を何台もの車で行く。田植えからずっと手作業で泥にまみれて、雨に打たれながら雑草を除き育ててきた愛着のある黄金に輝く稲を、今日はみんなと共に鎌を持って祭りのようににぎやかにはしゃぎ笑い、ザッザッとあの心地よい音と手触りを感じながら刈っていく。そして力を込めて縄で結び、コンバインに一束一束通って米粒が取られていくのを眺め、通って出てきた稲にまだついている米を捨てることに心から悔しく思う。最後に700㎏も入る青色の袋にコンバインで脱穀したお米が流れ込むのを見つめ、そして半分も満たずにコンバインは震えるのをやめ、収穫は終わります。毎年行ってきたこの流れは、毎度私に新鮮な感情と生きることへのヒントをくれるようで、好きなひと時です。
 脱穀したお米の山をすくい上げると、いつも私の手で育てた事がうれしくって、何度もすくい上げては流すのをくり返してしまいます。今年も百数十キロのお米を目の前にしていたら、ふとあるものを思い出しました。それは小学生の時に何度も読んだ歴史マンガの一コマでした。武士に年貢の米を取られて苦しみあえぐ農民たち。隙間だらけの家の中に隠した米と私、家族の命を継ぐ米を無慈悲に奪われ「どうかそれだけは」と非力な叫びを上げるシーン。なぜかそんなシーンが思い出されました。あんまり覚えていませんがこのシーンには続きがあったと思います。武士に全部持っていかれてもう家には来年の田植えのための米しかない。だから泣く泣く仕方なく子供を売ってそのお金で米を買う。遠い昔、米は血でつながった家よりも深い命の関係だった事を思い出しました。そう思うとハッとさせられました。収穫とは喜びだけで終わるものではなく、何かの体験でもなく、心の奥底からしみ出てくる、今年一年は生きられる、この家族でもう一年生きられるという強い安心感なのでしょう、彼らが食べるお米と私達が食べるお米、同じでしょうか。彼らの言ういただきますと、私達がお祈りの後に言ういただきますは同じでしょうか。ファーストフードで何でも早く安く食べられる今の時代、食べ物があふれていて、食の重みがどこかへ行ってしまった日本を生きると忘れがちになりますが、生命の死が私の生につながる収穫という時に考えることは、なんともありきたりですが、ただ感謝に尽きる気がします。
 今年も一度だけ水田の米を食べました。粒は小さい気がしましたがとても甘かった。何よりも味わって食べました。おいしかったです。やはり自分で収穫したものは特別においしいものです。これからも愛真に収穫の時があり、恵みについて考えられる時があることを願って感話を終わります。
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