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「まことの愛」創立責任者のことば

 皆さんはこれを、余りにも突飛な答だと思いますか。それなら、神を発見するということの内容として、まことの愛を発見すること、というふうに言い換えてもよい。神は愛でありますから。

——愛の対象を与えられ、愛に生きるということこそ、人間として生きることの最終的目標である。こう言えば、文学者などは賛成してくれるかも知れません。しかし実は、これではまだ、最終的解答にはなっていないのです。なぜなら、われわれは人を本当に愛することができませんから。

 すると、神を発見し、愛に生きるということは、最終的にはどういうことになるのであろうか。それは神の愛にとらえられ、われわれの救いのためにその独り子さえお棄てになったという、われわれの理解を絶する愛の焔の中に、自分自身がとらえられることによって、その神を愛し、その神の御心であるが故に与えられた隣人を愛して進む。この愛の捧げということを抜きにして、人生の意味づけはできないと私は思います。しかもわれわれが神を愛するのではなく、神がわれわれを愛しておられるという、この順序が大事です。これほどの愛が自分におし迫っているという客観的事実を、なぜ人は無視し続け、拒絶し続けるのでしょうか。実はこれがまさに、罪にほかならない。この愛に触れるとき、われわれはそこではじめて、生命というものの営みの、根本的意味を発見することができると思うのです。

 皆さん、私はこれを、おしつけようとしているのではないのですから、誤解しないで下さい。私にとってはそうであった、と申し上げているだけです。自分で納得できなければ、自分で納得の行くまで、解答をお探しなさい。人生問題の解答は、借り物ではだめですから。

(一九七九年、小倉での講演「青年期の課題」より)
高橋三郎著作集第九巻p.33-34

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