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夕会ノートより(2023年度①)責任の主体はどこにあるべきなのか?

責任の主体はどこにあるべきなのか?
 最近、創世寮では土日の寮生会の時に、ある本を読み合っている。そう「決まり・心得」。
 ここに書かれていることを守れば、皆さんは誠実で充実した愛真生活を送れます。ですから、この決まり・心得をもって「責任の主体たる独立人」を目指し、最高の愛真生活を送ってください。こんな感じで今日の夕会を終えようと思ったんですが、やっぱりなんかちょっと無理があるかな。だってまず、「責任の主体たる独立人」って何なの?この世界は「ルール」という大きなものによって成り立っている。「人を殺してはいけない」「モノを盗んではいけない」「いじめをしてはいけない」「戦争をしてはいけない」「男女交際をしてはいけない」「ウソをついてはけない」「酒やたばこをしてはいけない」などなど。
 
 親が子どもに「~してはいけないよ」とか「~を守ってね」っていうように、ルールは無条件に先にいた人から後に来た人に移っていく。いわば早い者勝ちであるということ。今、まさに私たち愛真生もそのルールの上に生きている。わたしたちは「決まり・心得」という私たちより先に愛真に来た先輩たちが作っていったルールを守っているわけである。いや、むしろ守らされている。36年目となる愛真で暮らしてきた。今までの先輩、先生たちの考えや思い、汗と涙が詰まりに詰まったこの一冊。
 
でもね、僕は思う。これを読み、誠実に守り抜くことで、本当に私たちは「責任の主体たる独立人」になれるのか? まず「責任の主体」とはどこにあるのか? この一冊に書かれていることをただ「まぁ、ルールだから守らんとね」といって守り抜いている人には、責任の主体が一切ない。逆に言えば、これに書いていないことは何をしても良いということだ。「人殺しました。決まり・心得に書いてないからいいでしょ」。この人は責任を自身ではなくこの紙に突き付けている。その人にとって責任の主体というのは「決まり・心得」であり、その人自身ではない…。「ルールだから守る」というのはある意味、思考放棄では? 何でも「ルールだから」って言っとけば良いと思っている。全く考えていない。
 
だけど愛真が私たちに求めている責任の主体とは、この紙ではなく、私たちの脳に、心に、そして全身にあるべきものではないのかな。そうなった時、人は本当に自由になることができると私は思う。みんなも愛真に来ていろんなルールに出会ったと思う。きっと中には、なかなか理解できない、納得がいかないと疑問に思うモノもあると思う。その一つひとつに縛られていく中で私たちが問われているのは、「なぜそのルールを守るのか」ということである。それは「ルールだから」なのか「ルールにはないから」なのか。ある本の言葉が思い出された。「お前がルールを守るのは、お前がそれを守るべきモノだと思うからか?」「お前がルールを破るのはお前がそれを守るべきではないと思うからか?」
 
大切なのは自分。自分が独立して考え行動する時、初めて自分自身の責任になる。自分自身が「責任の主体」である時、自分は自由だ。そして真実であるのではないかと私は思う。
自由は追い求めないと来ない。皆さんももっと自由を求めてはどうですか? 自分が見ている、聞いている、感じている世界は自分だけのモノ。すべては自分次第。「みなさん、自由であってください。そして真実であってください」
聞いてくれてありがとう。        
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