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収穫感謝礼拝 生徒感話(2010年度)私の手のぬくもり あなたの手のぬくもり(養鶏班)

あなたの手は温かいですか。私の手は温かいです。よかった。それが生きている証拠。命ある証
私は養鶏班の作業の中で、毎日、毎回命に触れる。昨年、五月十三日にやってきた小さな命、プリマスロックはもうすっかり大人になって、毎朝私たちが運ぶエサに群がってくる。昨年スコップで堆肥と空気を一生懸命混ぜ込んだロータリーの土は、今美しい花々の命を生む。これらの命に触れる私の作業には、一貫した一つの大きな柱がある。それは、「育てる」ということ。鶏にだって土にだって草花にだって「育てる」という営みは必要不可欠のものだ。そして、その営みが私の心と体を育てていく。
私にとって、愛真の鶏たちは大切な友達だ。一人ふらっと彼らを訪ねて散歩に行き、何となくもの悲しくなって、小屋の前に座り込む。涙が出そうで苦しくなって、ぎゅっと一羽を抱きしめる。鶏たちの小さな温かさと存在が私を励ましてくれる。小さな癒しである。だから何度か出会った彼らの死は寂しかった。イタチに襲われた死、高齢死、病気…。しかし、これらの死は自然界ならどこにでもあり得る死で、寂し
くても心では納得していた。
二〇一〇年十一月八日。私たち養鶏班は自分たちの手で三羽の命を奪った。先生と相談の上で「やりましょう」と決断をしたのは私自身であったし、決心を固めてからもう何日も経っていたのに、自分たちの手による彼らの死はすごく苦しかった。しかし私の命は、彼らの死がないと成り立たない。
毎朝もらう卵も小さな命の原形なのだから、私達は毎日の食事の中で、たくさんの命をもらっている。その事実は日々理解できていると思っていたが、目の前で血を抜き、この手で羽根を抜き、内臓を取り出す時、自分の認識の甘さと命に対する感謝を心の底から実感した。
私が生きるということは何かの命をもらうこと。たとえベジタリアンであっても、野菜にだって命がある。私達が生きるために他の命をもらうことは、当たり前のことであり自然なことだ。しかし命は命、生きている存在だ。だから感謝を忘れてはいけない。卵を握りしめて感じる小さな温かみ。鶏を抱きしめて感じる小さな呼吸の動き。それは彼らが生きている証拠、命ある証拠。そしてそこにつながる私達の命。
私はその命を育てている。彼らの小さな命を育んでいく。そしてまた、彼らが私を育てる。彼らを育てるという営みに、私は育まれていく。作業の中で与えられている恵み。一つ一つの恵みは気付かず通り過ぎてしまいそうなものだけれど、いつの間にか私の手の中にあって命につながる。私の存在を作るすべての命に感謝したい。
私の手のぬくもり。あなたの手のぬくもり。よかった。それは与えられている証拠。命ある証
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