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作業のことば 収穫感謝礼拝メッセージ(2023年度)実感・変化・なんか良い

5涙と共に種を蒔く人は
  喜びの歌と共に刈り入れる。
6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
  束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる。
                (詩編126篇5~6節)
 
 おはようございます。米を育てるにあたっての表現は、2年前水田山林班の生徒がこの場所で言っていたことがずっと頭に残っています。「滴り落ちる汗や流れ出る血を田に染み込ませる」、がーんという衝撃を受けました。それは比喩じゃなかったから。それが比喩じゃないという実感がたしかにあったから。それは田植えの時、日々の田んぼの管理の時、ヒルに噛まれた私たちの血液は垂れ流れ、いつしか田んぼの一部となった。背中がパリパリになるほど暑い日も、じゃんじゃん降りの雨の日も、来る日も来る日も草を抜いた私たちの汗もまた田んぼに垂れ流された。私たちだけでなく、ヒルも、カモも、サギも、カエルも、アメンボも、イノシシも、雨も、日照りも、みなで関わり、垂れ流し合った田んぼで育ったその米を、今年も無事に収穫でき、今日もおいしく頂けることに、まずは感謝したいと思います。

 さて、最近収穫したなあと感じたことは何かなあとポツポツ思い返していました。柄にもないことを言いますけど、それはやっぱり生徒のみなさんの、ひとりひとりの日々の変化と成長なんじゃないかと。柄にもないし、恥ずかしいので、やっぱりこの話やめときましょうか。いやでもホントに、思い返すとそうなんです。っていうか実際、広い意味では毎日毎日それしかしてないんです、自分自身。生徒のみなさん、教職員も含めたこの愛真共同体で、生活を共にしながら、日々の変化を見守り合いつつ、一緒に生きるってことしか、してないんです。それをなんかありがたいことに、仕事と認定して頂いているだけであって。例えばそれはどんな変化か。「ゴメンなさい」が言えるようになった、箒でゴミを掃けるようになった、蛇口がぽたぽたしないとこまで締めれるようになった、あんなに堂々と落語をやるようになった、数か月前に比べてちょっとだけ部屋が片付けられるようになった、朝の点呼に顔を揃えて起きれるようになった、みんな揃って食事ができることが増えてきた、ちょっとは話し合いができるようになってきた、言われなくても自然にできることが増えてきた、目が合うようになってきた、なんだか笑顔が増えてきた気がする、今まで誰にも話さず抱え込んでいたことを放してくれた、とか。これ、特定の誰かだけじゃなくて、頭に浮かんだ最近嬉しかったことを書いただけなんです。落語だけは特定されてしまいますけど。別に変化至上主義じゃないし、何か変わらなきゃダメなのかとかそういうことが言いたいのではなくて、ただ、一緒に暮らして生きていて、その人が自分も含めての交わりの中で今まさに変化していっているその瞬間を見れていることがなんだかとても嬉しい。だから、日々起きているみなさんの変化・成長、自分では気付いていることも気付いてないことも、僕にとってはやっぱりそれが最大の収穫なのかなあ。という、保護者のみなさま向けのようなこんな話はこの辺で終えまして、そろそろ本題に入りたいと思います(当日は、2年生保護者会の次の日で、多くの保護者のみなさまと共に礼拝を守りました)。

 くるみが、可愛い。なんか良い。突然ハマってしまった今日この頃です。地塩寮と創世寮の間の道、ラジオ体操に出ていくために毎朝通る道にある木に、ずっと何かの実がなっていて、2年間こりゃなんなんだろうかと思って見ていました。今年6月にどうやらこれはくるみっぽいということを知り、「おっ、じゃあ今年はくるみで何かしてみようかな」と思ったのがきっかけでした。それ以降ちょっと気にかけて見ていて、たくさん実った緑の実が落ちてくるのをまだかまだかと待っていました。気付けばひとつ、またひとつと落ちてきていて、「あーあ、落ちちゃったよ。なんだよ。」みたいにすねて無造作に転がっているのを発見して、「え、可愛い。」ってハマりました。落ちたらものすごい早さで真っ黒く腐っていくのも、よりすねてるっぽくてなんか良い。果肉の部分は触るとかぶれたりするぐらいだから動物にもあまり食べられず、ぽとぽとと落ちたら落ち放題。果肉からくるみの実(種の部分)を取り出そうとしてニギッとやると、ストレス解消グッズ並みのくせになるニギニギ感で剥けるところも、それで出てきたくるみの実のいわゆるくるみって感じのコロコロ感も、それをものすごい労力と時間をかけて慎重に慎重に割って食べられる部分を取り出しても、ポイっと口に投げ入れたら終わっちゃうぐらいわずかなところも、なんか良い。

 そんなこんなしている様子を周りになんだかんだと報告していて、「ゴリラというよりも冬眠前のクマみたいなことしとるな」とか言われたりしていたんですが、その中の返信で「丁寧な暮らし」というのがありました。「丁寧な暮らし」、う~ん…違和感。その返信、なんか分からんけど直感的違和感。丁寧な暮らしという言葉や発想が嫌いなわけではないですし、なんなら自分も「日常生活のひとつひとつを丁寧に」なんてことをよく言ったりするので、うん、なんかよく分からんけど、「見て!くるみ!可愛い!」ってしていたことに、「丁寧な暮らし」の一言で返されたのが、なんだか違和感。

 つまり、丁寧な暮らしがしたくて、くるみを拾ったり割ったりして可愛がってたわけではないんです。小さな「なんか良いなあ」をたまたま積み重ねていた結果、人から見たら「丁寧な暮らし」と言われるものに勝手になってただけであって。ハッシュタグが付けたいわけじゃない、って。この違和感、大事だなって思ったんです。「丁寧な暮らしがしたくて山に来ました。」よりは、「え、なんか良いじゃん。山。気持ち良いじゃん。」の方が直感っぽくて、借り物っぽくなくて、真実っぽい。なんとなくでとか、その場のノリでとかではなくて、後で思い返した時に、いつでもその実感に立ち戻ってこれるような。

 今日の聖書箇所は、「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」です。種蒔く時には涙も流したもんですが、なんか良い、なんか良いを選び取る直感をじっくりゆっくり育んで、刈り入れの時には喜びの歌を一緒に歌っていられるように。いつか泣きながらこの山を下りるその時が訪れても、その後もなんか良い、なんか良いを歩み続けて、いつか歌って帰って来れるように。なんか良いの選択の連続の先で、また会うことができますように。なんか良いなあの直感を育てるために、人にもまれ、自然にもまれ、奥田先生にもまれ、聖書にもまれ、勉学にもまれ、時代にもまれ、自然にまみれ、人にまみれ、たくさんのなんか良いを見て知って受け取って、自分なりの、こだわりの、なんか良いを育んで、形にしていってほしい。愛真、それができる場所なんじゃないかと思います。せっかくの、ここでしか出会えないなんか良い、今日はいくつ出会えるでしょうか。楽しみに、期待して。

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