見出し画像

入学礼拝式辞(2011年度) 命


聖書 マタイによる福音書16章24〜27節
 
例年のことながら、今年も全て命あるものが復活するかのような春がやってまいりました。この冬は例年になく厳しいものでありましたが、校内のソメイヨシノやヤマザクラ、オオシマザクラも今を盛りに咲いております。神さまのお守りの中に第二四回入学礼拝が出来ますことは本当に感謝であります。ご来賓の皆さまにはご多用の折りにもかかわらず、ご出席をいただき、誠にありがとうございます。さらに、これまで全国各地で本校を見守り、支えてくださり、折あるごとに祈っていただいております維持会を始めとする皆さまに感謝申しあげます。
 
さて、新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。保護者の皆さまには心からお祝い申しあげます。新入生の皆さん、皆さんが本校に入学できましたのは、皆さん一人ひとりの努力は勿論ですが、そればかりではなく、これまで皆さんを温かく見守り、時には厳しく指導して下さった保護者の皆さまをはじめ、多くの社会の方々のお力添えがあったことを忘れないで下さい。そして感謝をして下さい。さらに、これから本校で学ぶ者として、皆さんのために、神さまが本校を用意され、先生方や先輩たちが待っていてくれたおかげと、神さまに素直に感謝して下さい。
 
今、国内では今回の東北関東大震災の地震・津波さらに東京電力福島原子力発電所の事故による放射能汚染により、多くの方々が被災されました。死者も一万三千人に達し、まだ行方不明者も一万五千人も残っております。被害の全貌はまだまだはっきりしませんが、これまでに無かった大きな震災でした。一ヶ月が過ぎても出口の見えない状態が続いています。被害状況が分かることや復興計画までにはこれからも時間がかかると思いますし、原発事故は今後も不安定な状態が続くでしょう。特に今回の震災で命を失った方々の無念はいかばかりかと思います。
 
入学式などができない学校も多くあります。さらに学校が無くなり、他の学校に転校しなければならない高校生もおります。各地の自治体では援助や避難者の受け入れを表明しております。島根県でも寮のある学校での受け入れ可能数調査がありました。本校でも男子二名、女子二名の受け入れ可能性を回答しました。さらに今は、世界の注目は原子力発電所の事故に注がれており、被害の広域化と長期化が心配されて
います。農業や多くの関連産業が被害を受けております。これは天災ではなく人災であるともいわれています。
 
本日は、震災のこともあり、「命」について考えてみることにしました。
今回の大震災で問題になったのは一万三千人という死者の数です。人を数で数えることに問題があるということも指摘されておりますが、ここでは命をまず「生存していること」という意味から考えますと、行方不明者の中から生存者が一人でも多く発見されることを願っています。一人一人にそれぞれの人生があったわけですから、その大きさは想像できないほどになると思います。助かった人は、亡くなった人の分まで命を大切にしなければならないでしょう。また、亡くなった人に何かの縁で繋がっている人も、同じ努力が必要でしょう。記憶の中にその人がいる限り、その人はある意味で生きていることにもなるでしょう。まずこれから考えることは、生存していることとしての命は大切にしなければなりませんし、他人の命も大切にしなければならないのは当然のことになります。
 
次に「生きる」という意味の命を考えてみましょう。ここで、先ほど読んで頂きましたマタイによる福音書16章24〜27節を学んでみたいと思います
 
24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。
26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるので
ある。
 
この箇所は、イエスさまがご自分の死と復活を予告された部分に含まれています。弟子たちはこのイエスさまの言われたことをすぐに理解できたのでしょうか。イエスさまについていくとはどのようなことなのでしょうか。弟子になるという意味ばかりでなく、現在、聖書を通して学んでいる私たちはどう理解し、行動すべきなのでしょうか。
 
自分を捨てるとはどのようなことでしょうか。自分の十字架を背負うとはどのようなことでしょうか。
自分の命を救いたいと思う者はそれを失う、とはどのようなことでしょうか。
イエスさまのために命を失う者はそれを得る、とはどのようなことでしょうか。
深く考えてもすぐに理解できることではないでしょう。大人だって、勉強すれば分かるということではありません。この部分は新約聖書の中でも、信仰とは何かを考える場合に特に大切な部分です。「どう生きるか」という問題です。
 
聖書の内容に関してはこれから学んでください。今は、この部分を高校生としてどう生きるかという観点で考えて下さい。そして、聖書の学習を通して、日常の生活の中で御言葉を大切にすることと共に、それがどのように自分の生活のなかで生かされているかを、時々振り返ることが大切です。寮での生活などで、すぐに身近な問題として浮かび上がってくるでしょう。多くの卒業生も、このことでは悩んできました。
今までの自分の生き方や友だちとの接し方など、自分を深く見つめるようにと礼拝や聖書の授業もありますが、聖書を真剣に学び、特別授業を受け、あらゆる機会を捉えて考えて下さい。次は、聖書を基に、少人数・全寮制の環境で、豊かな知性を育てることについてです。本校は全日制の普通科の高校ですから、当然高校の普通科の授業を行っております。勉強は大いにして下さい。本校の生活時間の中にある「沈黙」と呼
ばれる時間に静かに自分を見つめ、学習をする時間を守れば、あなたは必ず大きく成長できると思います。一人で机に向かう厳しさも分かってくると思います。これからは友人と競争するのではなく、共に伸びるよう、励まし、助け合って下さい。実際には、勉強しようとしても、いろいろな誘惑があり、自分の弱さとの戦いが続くと思われます。また、本校はいわゆる受験のための教育をする学校ではありません。じっくり
と考え、学ぶとはどういうことか、真理を求めるとは何かなど、静かに闘志を燃やして学問を考えてください。これまでの「勉強ができる」から、「自分で学べる」生徒になってください。世間一般でいう勉強ができる、できないの問題は、これまでの学習時間の差による場合が多いです。能力の差ではない部分が多いのですから、もしこれまでの勉強が足りなかったと思う人は、時間を見つけて学習時間を確保してください。
二四期生として一三名の生徒が新たに入学しましたが、保護者の皆さまには、これまでお育てになりました生徒さんをお預かりし、職員一同、生徒と共に前進して行こうと決意を新たにしております。教育に携わる者として「若者と一緒に、夢や希望を語る」ことのできることを幸せと感じています。
 
以上をもって式辞と致します。
 
ご出席の来賓の皆さま、そして保護者の皆さまには今後ともこのキリスト教愛真高校をお支え、お祈り頂けますようお願い申し上げます。ありがとうございました。
 
お祈り
天のお父様、今、あなたのお選びくださった新入生一三名を迎えることができました。ありがとうございます。今日から愛真高校は二二期、二三期、二四期の四八名の生徒と私たち職員が、あなたの御言葉を学びながら、歩んでまいります。これまで同様、あなたの優しさと厳しさの中を歩めますようお導きください。また、来賓、保護者の皆さま、全国各地で愛真高校のため祈り、支えて下さっております皆さまにも、あなたのお守りをお願い致します。東北関東大震災で被災された皆さまが一日でも早く復興できますようお願い致します。
この拙き感謝と願いを、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げ致します。
アーメン
 
#キリスト教愛真高等学校 #愛真高校 #愛真 #島根 #江津 #高校 #全寮制 #キリスト教 #キリスト教学校 #感話

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!