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卒業礼拝の「ことば」(2022年度)      見出された者として

卒業礼拝の「ことば」(2022年度)
見出された者として


1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見   かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。  (ヨハネによる福音書9章1~3節)
 
30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたが  たがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
(ヨハネによる福音書9章30~39節)
 
 33期生の保護者の皆さま、あらためて子どもさんのご卒業おめでとうございます。愛真高校に子どもさんを送り出してくださり、今日に至るまで私たちと共に歩んでくださったことを心から感謝申し上げます。今年も新型コロナウイルスの影響によって、多くの方をお招きすることはできませんでした。しかしこうしてご家族の方々と友をこの場にお迎えして、卒業礼拝を行えますことを神様に感謝いたします。そして各地でこの礼拝を覚えてお祈りくださる方々がおられます。お一人おひとりのお祈りに感謝いたします。
さて33期生の皆さん、1月の私の朝拝で今読んでもらった9章の始めのところを取り上げました。今日もう一度9章を取り上げたのは、本校を卒業していく33期生の姿が、9章に登場するイエス様に見出された盲人の姿と重なったからです。
 
ヨハネによる福音書の9章は、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」という1節から始まります。「彼の目が見えないのは誰が罪を犯したからですか」と尋ねる弟子たちに、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられます。そして自分の唾で土をこねて彼の目に塗って、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼が言われた通りにすると、目が見えるようになりました。
 
1月の朝拝では、イエス様という方は、私にこれさえなかったらと思うところ、劣等感や自己嫌悪、最も自分が弱さを感じているところに目を留め、そこを神の業が現れるところ、神の栄光が讃えられるところへと変えてくださる方だと話しました。
 
イエス様の言葉によって、この盲人は「どうして」「なぜ」という問いに縛られる人生から解放されました。原因を問う生き方から目的を問う生き方へと変えられて、自由にされました。それは、本校で「人は何のために生きるのか」という問いを大切にしていることと通ずるものだということも話しました。
 
朝拝では取り上げる時間がありませんでしたが、イエス様がこの癒しを行なわれたのが安息日だったので、このことはユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派の人々の間で問題とされました。目が開かれた人とファリサイ派の人々との議論が9章13節以下に記されています。
 
目が開かれた人にファリサイ派の人々が「いったい、お前はあの人をどう思うのか」と問うと、彼は「あの方は預言者です」と答えます。ファリサイ派の人々は、納得のいく答えが得られず、彼の両親まで連れてきて問うのです。
それに対して両親は、「どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と答えるのです。
 
そこでファリサイ派の人々は、再び本人を呼んで、しつこく問い詰めます。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
 
彼は答えました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
 
なおもファリサイ派の人々が「あの者は、お前の目をどうやって開けたのか」としつこく聞くので、彼は「なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と答えます。
 
そして人々の罵る言葉にもひるまず、更に答えて言います。それが先程読んでもらった30節からの言葉です。
 
30 「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
 
ついに彼は、自分の目が開かれたという事実をもって、イエス様が神様のもとから来られたことを告白するに至りました。盲人のりりしく勇ましい応答ぶりに目を見張ります。
 
9章8節には、近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、彼の変貌ぶりに驚いている様子が記されています。それまで、人間らしい扱いを受けることなく、人々の前に自分を卑下しつつ、おどおどして生きてきたに違いない彼が、権力を少しも恐れず、自分が体験した事実に基づいて、自分の考えをきっぱりと述べています。この人の内に、明らかな内的な変化があったことを物語っています。
 
彼は、自分に与えられた恵みを告白することにより、それに伴う全責任を我が身に引き受けました。イエス様との出会いによって、一人の人格として生きる価値を与えられ、自分の責任で応答し歩み始めたのです。この目を開かれた人の中に、責任の主体として歩む姿が凝縮されているように思います。
 
 しかし、責任の主体として歩むということは、生半可なことではありません。自らの判断と行動をこの身に負うということです。この人は、イエス様が「神のもとから来た」と語ることで、会堂から追い出されることになります。当時の社会で会堂から追い出されるということは、当時の社会から追放されるということを意味しています。
 
9章23節には、目が見えない人の両親がファリサイ派の人々の質問に対して「本人にお聞きください」と答えていますが、この両親は自分たちが会堂から追放されることを恐れてこう言ったのでしょう。しかし目の開かれた人は、自分の身に起こった事実と自分の考えとを堂々と述べています。
 
 今日、どうしてこの箇所を取り上げたのか。最初に言いましたが、この目の開かれた人の姿、その変化が33期生の皆さんと重なったからです。
 
 皆さんは、本校で「何のために生きるのか」という問いに向き合い、自分の進むべき道を模索してきました。「豊かな知性と確固たる良心を合わせ備えた責任の主体たる独立人を育成する」という教育目標の下で、社会の様々な問題を知り、そこにどう関わろうかと考えてきました。今も続く戦争や紛争、温暖化の問題、つい最近はトルコで大きな地震があり、世界各地に痛みや苦しみを抱えておられる方がいる。それらのことに心を痛め、自分に何ができるかと考えてきました。
 
その一方で、全寮制の密接な人との関わりの中で、自分の弱さと向き合う大変さを、身をもって体験してきました。自分の弱さと向き合い、もう前に進めないと思ったこともあるでしょう。それでも真実に歩みたいと願い、今、少しずつ自分の足で立とうとしています。皆さんを必要とし、必ず待っている方がおられるはずです。そのことに希望をおき、これからも自分を育てることを大切にして歩んでほしい。
 
しかしこれから社会に出て、自分の良心に従って歩むこと、責任の主体として歩むことは、多くの困難と向き合う道でもあると思います。何らかの障害が身にふりかかること、何らかの戦いの場に引き出されることもあるでしょう。
 昨日は、東日本大震災から12年の日でした。今も避難生活をしておられる人の数は3万2千人近くにもなります。東京電力福島第一原発の廃炉の目途も全く立たない中で、原子力規制委員会は、原則40年と定められていた原発の運転期間を60年を超えて稼働させることを了承しました。今日本は、すでに国民に多くの借金をしていますが、政府は軍事費の大幅増額という多額の借金を後の世代に押し付けることを閣議決定しました。これらのことで今後何があっても、誰も責任を負いません。無責任がはびこる日本において、皆さんが責任の主体として歩むということは、並大抵のことではないと思います。
 
今日取り上げた目の開かれた人も、宗教指導者たちが望まなかった回答をしたことで、会堂を追い出されてしまいました。その後のことが、35節以下に記されています。
 
35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
 
ここで「出会う」と訳されている言葉には、「見出す」「探し出す」という意味もあります。英語ではfindという訳語が使われています。イエス様の言葉に従って、シロアムの池で目を洗い目が見えるようになった彼が戻って来た時には、イエス様は既にそこを立ち去っておられたので、彼はイエス様がどんな方かを見ることはできませんでした。道ですれ違っていたとしても分からなかったことでしょう。彼は会堂から外に追い出されてしまいましたが、それを聞かれたイエス様が彼を見出してくださったということです。たまたま出くわしたということではなく、イエス様の方が彼を探し出し、彼のもとに来てくださったということです。そして言われたのです。「あなたは人の子を信じるか」と。「救い主を信じるか」という意味です。
 
彼が「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と目を開かれた人が問い返すと、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」とイエス様は答えられたのです。彼にとって、その感激はどれほど大きなものだったでしょうか。生まれながらの盲人だったこの人が、自分の目を開いた人を目前に見ています。これ以上の喜びがあるでしょうか。彼の胸のうちを想像してみてください。彼はただちに「主よ、信じます」と言って、イエス様にひざまずきました。
 
 会堂を追い出されたこの人を、イエス様の方から見出し語りかけてくださったように、神様は真実に歩もうとする時、決して見捨てず共に歩んでくださいます。私は33期生の皆さんのことを神様が見出してくださった一人ひとりだと信じています。皆さんがここで生きる目的を模索し、きっとこれからもそれを模索していくだろうということ、ここで遂げた成長、変化、そして社会に立ち向かおうとしている静かな願い、これから真実に歩もうとする時に必ず遭うであろう困難、それらすべてが今日取り上げた目の開かれた人に重なって見えるのです。
 
イエス様は、盲人にむかって「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。33期生の皆さんが、神様に見出された者として、「自分を通して神様は何をなそうとしておられるのか」と応答する歩みをしてくださると期待し送り出します。それでは行ってらっしゃい。
 
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